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近江の歴史を語るとき、近江源氏佐々木氏を措いて話は進められない。
甲良の歴史もまた然りである。
観応元年(1350)6月佐々木京極道譽が高師直に宛てた文書(多賀神社文書)によると「私が今こうして甲良に住まいをかまえていられるのも、ひとえに多賀社の神官である多賀・河瀬一族の忠勤の賜物である。」と述べている。
近江一国の守護となった佐々木道譽は坂田郡柏原から甲良に館を移すについて、国人領主たる多賀・河瀬両氏を懐柔したことが知れる。さらに道譽四代の孫京極持清は、己の弟高忠を多賀氏へ送り込み姻戚関係によりさらにその絆を固めたのである。
この高忠こそ世に有名な多賀豊後守高忠に他ならない。
中世武家儀礼の研究(吉川弘文館)には高忠について次の記述がある。
「多賀高忠は近江京極氏の重臣で、室町中期寛正3年(1462)10月5日から文正元年(1466)12月末までと文明17年(1485)4月15日からその死にいたる翌18年8月17日まで応仁の大乱前後の時代に二度にわたって侍所所司代の任にあった人物である。
歌道をよくし、小笠原持長に射芸を学び、その技に秀でまた多くの武家故実書を著している。(中略)室町期の京都の人々の間に多賀高忠の名は、あたかも江戸の名町奉行大岡越前守忠相に比せられるほど市井に知られていた。庶民を食い物にする狡猾な質屋を懲らしめたり、強欲な買主に奪われた家財を奇抜な裁きで守ってやった話など、その真偽のほどはともあれこうした逸話が京都の庶民たちに語られたところに高忠と京都の関係の深さがしのばれよう。」と。
このように、高忠は所司代として京都にあって活躍した人物であるが、彼は下之郷城主(三代目)でもあり下之郷桂城神社文書には次のような記述がある。
「京極高員(高忠の父)はこの社が往祖の神霊であることに思いをはせ(桂城社は佐々木神社の祭神を勧請している)朝拝り怠なかった。近在の八目、石畑、八町、四十九院やや遅れて雨降野の村人たちは産土神として敬いたいと申出があったのでこれを許し、六所の産土神としたの神威はいやがうえにも上がった。高員の子豊後守高忠は姓を多賀に改め弓馬の達人であった。彼はある年、国中の人々が干天のため困窮したとき六所の神に雨乞い神事を奉納するやたちま忽ちに降雨があり、国守京極持清の信頼を一身に集め六所大権現の威光もより高まった。
かくて下之郷城は代々相続し来たったが永禄・元亀・天正の政変に江源佐々木一統は悉く没落、下之郷城は他に先んじて落城し城主をはじめ家老ら諸士多くが討死した。とある。
このように甲良はすでに南北朝時代から多賀、豊郷、彦根と歴史的に深いつながりあることが知られるのである。
(甲良町文化財専門委員 川並稔男)
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